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曖昧と明晰

 西欧人からみると「日本語は曖昧で何を言おうとしているのか分らない」と言う。イエスともノーともとれる表現が多い。「如何なものでございましょうか」「会社を退職することになりました」などは理解に苦しむ。会社からリストラされたのか自分で辞めると決めたのか。「いいけどー」にいたっては「いい」と言ったということになる。自分の意見をはっきり言うと嫌がられる社会なのだ。中国人からみると「日本語はあまりにも明晰すぎる」と言う。

 中国人は議論しなければ生活できない。議論好きでおしゃべり。日本人は長い間、文字はなく伝承以外ものをのこす方法を知らなかった。そこへ大量の中国の古典が流入した。涙と汗、そして口角からふき出された多量の唾とで獲得さるべき「結論」が、簡単に目の前にあった。獲得への努力がほとんどゼロのうちに。 記録された結論も大切であるが、それよりも重要なのは、記録されるにいたった過程であろう。中国人は歩きながら、道しるべを立ててきた民族で、日本人は道しるべを頼りに歩いてきた民族である。日本人にとって、「結果」は大切なもので、それがなければ、ことばさえ使えない。結果がはじめから要求される。話すまえに結果がわかっており、ニュアンスも吟味するまでもなく、ことばの表面にぜんぶ出ている。人びとは議論を尊重せず、おしゃべりを軽蔑するようになった。  陳舜臣著「日本人と中国人」より

「私が行く」他の人も行きたいかもしれないが。他の人を差し置いて。
「私は行く」他の人が行くかどうか知らないが。
「私も行く」他の人が行くが。他の人が行くので。
「が」「は」「も」で、こんなにも多くの中味を物語っている。「この仕事を12時まで、やってください」「この仕事を12時までに、やってください」
前者は12時までずっと仕事を続けなければならない。後者は完成すればよいので、いつ止めてもよい。
「京都に着くまで、ビールを飲んでください」「京都に着くまでに、ビールを飲んでください」あなたはどっちがいい?
by iwaoka2 | 2001-01-01 23:47 | 言葉のエッセイ
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