海ゆかば  

 今日は第二次大戦の終戦記念日  
今の若い人々には、戦争といっても実感はわかないだろう。テレビで戦闘の実況放送がされる時代である。実弾が飛び交い、爆発するのを簡単に見られる。しかし、そこで生活をしている人や兵士の気持ちなどは、あまり実感がない。
我々の世代は、戦争に行って帰ってこられた先生方から、授業中にいろいろな話を伺った。自分は助かって帰ってきたことが戦死した戦友に申し訳ないという気持がいつも伝わってきた。

 五味智英教授は、思い出深い先生のお一人である。
ある日の万葉集の講義で、大伴家持の歌「海行かば水漬ミヅく屍カバネ 山行かば草むす屍 大君の辺にこそ死なめ かへり見はせじ」を歌って涙ぐまれた。
この歌は、万葉集巻18  4094の長歌「陸奥国より金クガネを出だせる詔書を賀コトホく歌」の一部である。聖武天皇の時、東大寺の大仏建立に必要な黄金がようやく陸奥国から産出された時の歌である。
家持は父・旅人と共に、多くの秀歌を万葉集に残した。武門の家に生まれた家持の、天皇に対する忠誠心がうかがわれる。それを軍歌に利用されてしまったのである。
しかし、歌詞とともにメロディの素晴らしさから、多くの兵士に愛唱されたのである。
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# by iwaoka2 | 2007-08-15 22:58

日本語の単数と複数 

 日本語の複数形は、英語のように名詞の語尾変化で表すということはない。
「人」「花」と言葉を二つ重ねない場合は、単数を表す場合が多い。
「人々」「花々」となると、複数の人や花を表す。しかし、単数と複数の区別が厳密ではない。「花が咲いている」の場合、一つでも二つでも沢山でもよい。
英語のように語尾に「S」をつけて複数を表すということはない。
日本語は「多くの~」「少しの~」の様に言葉の前に追加して、量の多少を表す。けれども、花が一つか二つかは問題ではない。

 「花々」の場合も、二種類以上の花を指しているのであって、花の数をいっているのではない。「桜の花々が咲いている」とは言わない。梅や桜は一本の木に数えられないほど、多くの花をつける。しかし、桜の花である。
英語では必ず「Cherry blossoms」と複数の「s」をつける。

 「花々」は「百合と桔梗と朝顔」のように、異なる種類の花の場合に用いる。 
キリスト教やイスラム教の神は一つである。大和には「八百万ヤオヨロズの神」がある。これは神様の数を数えたわけではない。八百も万も「多くの」という意味で、数にこだわりはない。古くは八や九や十でも「多くの」という意味があった。

 「達」や「ら」は「子供達タチ 子供ら」「学生達タチ 学生ら」と複数を表す言葉である。しかし「友達ダチ」は一人でも二人以上でもよい。
「友たち」となれば、複数のみをあらわす。友達のみダチと連濁をおこしているのは、複数を表すタチと意味の違いを表している。

 「達」は古くは、主として神または貴人(公達キンダチ)だけに用いられる敬意の程度が高い言葉であった。それが時代が下るにつれて複数の形で軽い敬意を表すようになり、今では敬意はなくなった。古くは敬語であった「貴様」や「お前」のように、敬意の度合は時代と共に下っていく。
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# by iwaoka2 | 2007-07-07 10:01

「不退転の決意」 

 六世紀半ば迄、日本には文字がなかった。仏教と共に漢字が入ってきて、漢字の音を借りた万葉仮名が使われ、古事記(変体漢文)や万葉集が編纂された。日本書紀は漢文体で書かれた。大和言葉にはまだ政治や経済の用語もなかったので、漢字と共に漢語が使われた。そのため学問とは漢語を学ぶことであった。
万葉集の最終歌は759年である。その後905年に古今和歌集が編纂されるまでの間、和歌は姿を消した。漢文全盛の時代であった。
和歌に替わって「懐風藻」(751年)「凌雲集」「文華秀麗集」「経国集」などの漢詩集が多く編纂された。後の三つは9世紀の勅撰集である。
平安時代初期に平仮名が作り出されて、和歌や文学が盛んになった。しかし、男性は漢語と漢字を用い、日記や公文書は漢語で書かれた。
その後も政治・経済用語は漢語が多く用いられている。
最近ではその漢語が分かりにくいため、分かり易い日本語になってきた。

 政治家は漢語がお好き。何故漢語を使うのか?漢語を使うと知的で意味が分かりにくい。その曖昧さが好都合。「不退転の決意で臨む」と言うがどんな決意なのか?
「不退転」とは、
「志をかたく保持して屈しないこと(広辞苑)」  
仏教用語で、「退くことのない位。仏道修行の過程で、既に得た功徳を決して失うことがないこと。いったん達した位からあともどりしないこと」(仏語辞典)
位は地位である。今の地位や利権を決して失わない決意ともとれる。
正直な気持ちであろう。
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# by iwaoka2 | 2007-06-10 22:01

補助動詞 

 「冷蔵庫にビールがある」この「ある」は、動詞本来の存在を表している。
「冷蔵庫にビールを冷やしてある」この「~てある」は、文の叙述を表す動詞「冷やす」の補助をしている。本来の意味と独立性を失って、付属的に用いられるもので補助動詞という。補助動詞は「動詞連用形+て(で)+ある・居る・くる・いく・みる・おく・しまう・やる・あげる・くれる・もらう」の形をとる。
動詞は時間的に持続し、また時間的に変化して行くものとしてとらえて表現する語である。これをテンスという。補助動詞は動作や作用が始まるのか、継続しているのか、完了したのか等を表す。
「手紙を書く(動詞)」「手紙を書い(動詞)ている(補助動詞)」
「着物を着る(動詞)」「着物を着(動詞)てみる(補助動詞)」
「学校に行く(動詞)」「学校に歩い(動詞)ていく(補助動詞)」
「様子を見る(動詞)」「様子を見(動詞)てくる(補助動詞)」 
「メモを残しておく」「小遣いを全部使ってしまう
次の補助動詞は話題の人物に対する話し手の、尊敬・親愛・軽侮などの態度を表す言語表現である。これを待遇表現とか授受表現という。
「弟に本を読んでやる」「友達にノートを貸してあげる」「兄が遊んでくれる」「宿題を手伝ってもらう
断定を表す「・・・・だ」。
「我輩は猫である」「バラの香りである」「昆布のだしである」「海の色は青である

次の例は動詞が重なった複合動詞である。補助動詞ではない。
 「桜が咲き始める」「犬が突然走り出す」「負けずに言い返す」「はげしい雨が降り続く」「逃げた猫を探し回る」「一円以下は切り捨てる」「呆れ返る」
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# by iwaoka2 | 2007-05-01 23:13

「ある」と「ない」

 「ある」の反対語は「ない」である。
「ある」は動詞であるが、「ない」は形容詞である。
動詞は人やものの動作・作用・状態・存在などを表す単語。
形容詞は物事の性質や状態、感覚、人の感情などを表す単語。
「ある」は存在を表し、「ない」は存在しないことを表す。
「ある事ない事を言いふらす人」
「駅の前にパチンコ屋がある」「大人には責任がある」「夫は理解がある」「メールには金送れと(書いて)ある」

 形容詞「ない」は名詞の後ろについて、「もう小遣いがない」「子供がない夫婦」「海がない県」のように存在しない・持っていないことを表す。「事件とは関係ない」「心ない人の行い」「情けない親」のように、否定も表す。

 動詞の否定形は、「動かない」「着ない」「寝ない」のように未然形に「ない」をつける。この「ない」は助動詞である。
「ある」の否定形は、「あらない」とは言わない。「ない」があるからである。そこで、「あり得る」という複合動詞にして、「あり得ない」という否定形を作る。
学校や警察等の公的な機関で不祥事がおこると、「あってはならない事が起こった」と釈明する。
形容詞「強い」「珍しい」は「強くない」「珍しくない」のように、「ない」は連用形につく。この「ない」は形容詞である。
動詞の後ろにくる「ない」は、形容詞ではなくて助動詞である。
名詞や形容詞の後ろにくる「ない」は、形容詞である。
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# by iwaoka2 | 2007-04-08 21:29