「生」と「死」を表す言葉 

 「死」を表す言葉はいろいろあるが誕生を表す言葉は、和語が「生まれる」漢語が「誕生」と少ない。「死」は避けられない・縁起カがよくない言葉なので、恐れ謹んで他の表現が多く生まれた。
日常我々は身内の死は「亡くなる」「死去」を使う。この他「逝く」「あの世に行く」「世を去る」「没する」「隠れる(高貴な人の死)」「冥土メイドへ旅立つ」「鬼籍に入る」「不帰の客となる」「他界」「臨終」「逝去」「永眠」「物故」「昇天・帰天(キリスト教)」「帰幽(神道)」等の表現がある。
「逝去」は他人の死の尊敬語で、身内の死には使わない。  
仏教では「往生」(この世を去って他の世界に生れかわること。特に、極楽浄土に生れること)、「成仏」(死んで仏となること)が一般的である。 

この他特殊な表現もある。
「入滅」釈迦の死、また広く高僧の死をいう。
「入定」聖者が死去すること。弘法大師。
「入寂」僧の死  
「往生」は、死ぬこと。あきらめてじっとしていること。
どうにもしようがなくなること。「渋滞で往生した」
「天寿を全うする」「大往生」は、高齢まで生きた人の安らかな死。
「夭折」は、若くして死ぬこと。「若くして夭折した」はおかしい。
「早世」は、世を早く去ること。若死に・早死に。 
「崩御」は、天皇・太皇太后・皇太后・皇后の死去。
「薨去コウキョ」皇族または三位以上の人の死去。   

英語でも 
一般的にはdieであるが、婉曲的にpass awayもよく用いられる。
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# by iwaoka2 | 2008-06-15 22:29

呼び名 

 日本の会社では、上司に対しては「課長」「部長」「専務」「社長」等の役職名で呼ぶことが多い。国会でも「総理!総理!」「○○大臣」と呼ばれる。
アメリカでは上司に対しても「ジョン」「トム」「マイク」等のニックネームで呼ぶことが多い。日本では「太郎さん」「翔太さん」等の個人の名前は避ける。
学校では「先生」や「校長先生」である。
アメリカの小中学校では、生徒は先生の苗字に「Mrs. Miss」や「Mr.」をつける。

 紫式部や清少納言や和泉式部の本名は不詳である。
宮仕えの女房には、官名や国名などをつけて呼んだ。弁内侍ベンノナイシ・讃岐典侍サヌキノスケなど。
源氏物語にも頭中将(蔵人所の長官) 按察(諸国の行政を監察した官)の大納言
などの呼び名が見られる。

 平安時代の女性は寝殿造りの家の中で、住んでいた場所の名前で呼ばれることも多い。「北の方」は公卿などの妻の敬称で、寝殿(主屋オモヤ)に対して北の対屋タイノヤに住んでいたからである。
源氏物語にでてくる「桐壺の更衣」は、その庭に桐の木が植えられていたので桐壺と呼ばれた局(淑景舎シゲイシヤの別称)で、更衣は後宮の女官の一で女御ニヨウゴの次の位。「弘徽殿の女御」が上の位である。
皇室や宮家では今でも、父親は「おもう様(主屋にいるから)」母親は「おたあ様(対屋にいるから)」と呼ばれるのはこの名残である。

 このように日本では、住んでいる場所や役職がその人の呼び名になっていることが多かった。
今でも個人の名前は、子供時代か家族の中だけで、世の中では苗字が用いられる。
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# by iwaoka2 | 2008-05-15 23:53

日本全国 ×世界全国

 「日本全国」と言えるが「世界全国」とはいわない。
「日本全国」は、日本の国の隅から隅まで全てという意味である。
世界は多くの国から成り立っていて一つの国ではないので、世界全国とはいわない。
「全国」には世界中の全ての国々という意味もある。従って、世界をつけなくても「全国」だけでよい。

我々は、そんな理由を知っていなくても、正しく日本語を話す。しかし、外国人は一つずつ学習しなければ、正しいかどうか分からない。
外国語の表現を日本語にする時、辞書を調べてこれでよいと思える言葉を選ぶ。しかし、それがとんでもない表現になってしまうこともある。

イタリアのあるホテルの宣伝に、「当ホテルは三流で・・・・」というのがあった。勿論、三ツ星ホテルという積もりであった。しかし、日本では星の数を誇るのではなく、一流と数字の少ない方がよい意味を表す。

米大リーグで日本人選手が活躍する度に「偶然だぞ」のプラカードが掲げられた。これは敵方のファンの嫌がらせではなく、裏には「It’s gonna happen」と書かれていたそうである。この日本語訳が難しい。何かで調べた結果が偶然そうなったのであろう。
「偶然」とは、予期せぬ出来事がおこるさまという意味である。日本人選手の活躍を褒めるつもりが、からかう結果になってしまった。
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# by iwaoka2 | 2008-04-21 20:47

梅と桜  

 端唄に「梅は咲いたか 桜はまだかいな」歌われている梅と桜。
梅は中国原産の木で、奈良時代に日本に入ってきた。万葉集には「萩の花」に次いで多く詠まれている。一方桜は、日本原産の木で古今集以降多く詠まれている。

 日本に漢字が入ってきて、万葉仮名が作られ万葉集(760年頃)が編纂された。古今集が編纂されたのが約150年後の905年である。その150年の間は、漢文全盛の時代で男性の日常生活は漢文が用いられていた。和歌は姿を消し、漢詩が作られた。
如何に漢文全盛の時代とはいえ、漢文は外国語であり自分の思いを綴るには不便であった。そんな頃、平仮名が作られた。しかし最初は女子供のものとされていた。
紀貫之が「男もすなる日記というものを女もしてみむとてすなり」と、仮名で日記を書いた。そして、漢文全盛の時代がようやく終わり、仮名文学の時代となった。
それでも男性の公的な生活や日記は漢文が用いられ、和歌は仮名が用いられた。 

 このような社会背景から、漢文明全盛の時代は梅の花がもてはやされた。その後、仮名が出来て大和言葉の時代になると桜に興味が注がれた。
梅の花は、「観梅」と漢語を使い、桜は「お花見」と和語を使う。
江戸時代の武士の世の中になると、「花」と言えば桜を指し、散り際の美しさといさぎの良さが日本人の好みにぴったりと合った。
梅と桜には、時代背景が如実に表れている。
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# by iwaoka2 | 2008-03-15 23:52

「この頃」 

 「この頃」を「コノコロ」と読むか「コノゴロ」と読むか。
「コノコロ」と「コノゴロ」はどう違うか。

【源氏物語で「もののあはれを知らぬ人にもあらず」といえば、男女の仲の気持のやりとりを知らない人でもないという意味だった。本居宣長が源氏物語を「もののあはれ」を書いた作品だと言ったとき、その「もののあはれ」とは、四季の移りゆきを眺めて感じる情趣であり、また、男女の恋の様相という意味であった。しかし、この頃……】 (大野晋著「日本語の世界」)
「この頃」を「コノコロ」と読むか「コノゴロ」と読むかによって、意味が違ってしまう。「コノコロ」と読めば本居宣長の頃であり、「コノゴロ」と読めば最近のことである。文章の場合はその続きを読めば理解できるが、話し言葉では直ちにその区別が必要となる。
「コロ」が清音か濁音かで意味が異なる。
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# by iwaoka2 | 2008-02-18 23:36