「孤高」を読んで。大野先生の思い出

 私が学習院大学国文科に入ったのは昭和33年。「天城山心中事件」直後の国文科であった。研究室はなんとなく緊張感があったが新入生はあまり出入りしなかった。
当時の学習院大学の教師陣は、安倍能成院長のお人柄からか素晴らしい先生方が多かった。世間では教授一流・校舎二流・学生三流といわれていたとか。
学生時代の私は学問より楽しいことが多くあり、あまり勉強はしなかったので家族からは猫に小判と言われていた。一生で一番楽しい時期であった。

大野先生の授業はとても明快で、まだ分からないことははっきり分からないとおっしゃって我々に問題を投げかけてくださった。
他の学年は大野先生が怖いという学年もあったようである。われわれの学年は大野ファンが多かった。後に、クラス会などには先生もよくご出席くださった。
その頃は「大野ススメ」ではなく「ボヤキの大野」と教え子達は言っていた。
そんなボヤキをなさった先生に「先生はちょっと時代の先を行ってらっしゃいます。二・三十年後にはきっと認められます」と申し上げたことがある。
なぜそんなことを申し上げたかというと
昭和三十年代は、まだ大学進学率もあまり高くなかった。特に女子の進学率は全国的に低く、少ない女子が文学部に集中した。入学試験では女子学生の方が成績がよかったのである。
慶応大学の池田弥三郎が述べた「女子大学生亡国論(大学の文学部に女子学生が多くなり日本の学問の府に危機感を抱いた)」に対して、大野晋は反論した。
「女子学生も男子学生と同じように学問でよい成績をあげているし、将来母親になった時に子供によい影響を与えられる(筆者の記憶)」
このように大野先生はいつも時代より先の方を見ていらっしゃるのである。

広辞苑が出来て世の中の評価がとても高いのは大野先生の功績であった。
岩波書店には、いまだに「大野原稿」と称して先生の広辞苑の原稿が大切に保管されているとおっしゃったことがあった。

「日本語練習帳」出版直前、奥様のお話では「あんなことを書いて大丈夫かな?どうしよう。どうしよう」とおっしゃって、部屋の中を動物園の檻の中の熊のようにウロウロなさったとか。
大野先生はユーモアもとてもお好きである。
「き・けり・つ・ぬ・たり」は「煙たし」で、私には難しいと申し上げた。先生はー漱石はね教室で、生徒が手を着物の袖から出していないので、「失礼じゃないか!」と言ったら生徒は「手がないのです」と答えた。「僕だってない知恵を絞って出しているのだから君もない手を出し給え」と言ったーとおっしゃった。
先生の終の棲家は、漱石の眠る雑司が谷墓地の隣であった。
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by iwaoka2 | 2010-03-25 00:18
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